昭和五十七年六月二十五日 朝の御理解
                                                                                御理解 第三十三節
 「お供物とおかげは附物ではないぞ」
                                                                                お供物とおかげは附物、と、いうように教える宗教もありますね。          教祖は、お供物とみかげは附物ではない。と、こう、お供えさえすりゃおかげを頂く、という事ではない、という事を教えられるのであって。例えば、ある宗教のように、もう、お供物とおかげは絶対のもの、と、されておる、ま、教義をもつ宗教もあるのです。けども、理屈は同じだと思うですね。勿論、そこには、真心が要求されますでしょうし、いさぎよい心、と、いう心が伴なうところのお供えでしょうし、御用でしょうからね。 成程助かるだろう、と、思います。
教祖様もこの、ただお供えさえすればおかげが頂ける、と、いうような安易な考え方ではなくて、その証拠には、またの御理解の中に御座居ますよね。
「寄進勧化をして氏子を痛めては神は喜ばぬ」と、おっしゃるけれども「氏子が真からもちえるのは神もこれ比礼ぢゃが」と、こう教えておられる、ね。氏子が真から持ちえるいさぎよい心でもちえる、ね。ならば、神も比礼ぢゃが、と、神様の比礼であるならば、または、私共は神様の比礼が輝く事の為にお供えでも出来るような、ね、おかげを頂きたいですね。
ある、八十八のお祝いをなさったお婆さんがございます。その後もまた、元気でおかげ頂いておられますが、その時に、御礼の参拝をされました時に、私が頂いた事でしたけれども、ま、“千世のための信心”と、言う事を頂いたんです。せんぜとは、千の世と書いてある。先だって、熊谷さんがそのお婆さんに会われた。も、兎に角お話に来て下さい、と、こう言われる。お話。なかなかもって、お話を頂いた位な事で、なかなか、この方、若い時に随分、生長の家に来られた方なんです。まあ、いうならば大変な金満家の、いうならば、お婆さんでもあるわけですけども、年を取るにしたがって淋しうなる。それで熊谷さんがお話になった。まあ、いろいろお話しされて、その事だったでしょうか、敬親会の時に、親先生がお話しになったですよね。て、私共がいくらお金をもっておっても、財産がある、というても、あの世にもっていく事は出来ませんからね、ね。それで本当に神様のお役にもたたせて頂こう、と、いう思いが大きく育ってくると、自分の心が豊かになってくる。安らぎが生まれてくる、ね。それで、なかなか、言いまわしは出けんけども。遺言状を書いときなさい、遺言状を、私のもっておる財産は合楽教会にお供えします、と、いう遺言状を書くだけでも心に安心のおかげが頂ける、と、いったようなお話を、いつでしたか親先生から敬親会の時に頂きましたよ、と、いう話をされた、ね。そんなら今、お供えせんでも遺言状だけ書いときゃいいでしょうか、と、言うて、その、ま、いうならば、その話を乗り気で聞かれたと言うことを、先だって聞かせてもらいましたが、ね。もう絶対極楽生きでしょうね。これなら、いさぎよい心ですから、必ず安心が与えられますよ。この世でどういうような事があっとったけれどもです。キリスト教あたりが、あヽして大きくなったのは、みんなそういう、そういうところの信心が徹底しておるそうですね。財産の全部を自分が死んだらお教会に献納する、と、いったような遺言状が、ま、ものを言ってくるわけです。ね。
そのお婆さんが本当にです、そういう、いうならば千世のため、とは、そういう事ぢゃないでしょうかと言う、あなたが頂かれたれたその御理解を、ま、元にして熊谷さんが話された、と、いう事を此頃聞きましたけれども、私、そん時思いました。本当に、そのお婆さんが、その、自分の沢山持っておられる財産をです、なら、例えその、なら、一部でもお教会にお供えして下さい、と、言うような勇猛心、元気な心が出たら、も、絶対心に安らぎも、これは安らぎというものは、じぶんで安らごう、安心しようとして出来るものではない。神様から許されなければ出来るこっちゃないです、ね。合楽教会ならば、例えば、お供えをした、その財ならざいがです、粗末になるような事は絶対ないですからね。例えば、みんながここでお供えされとるとを、私が贅沢の為に使うか何か、と、いうなら、それはもう死んでしまうでしょうね。もう世界万国津々浦々にでも願わくば、いうならば、教会を建てたい、布教の場を持ちたい、という、これは私の願いですから、まず何と言うても先だつものはお金です、ね。ですから、そういう神願に答える。なら、神願に答える、いうならば、お供えがもし出来たとするならば、ね、神様が安心を与えなさらん筈がない。それこそ極楽のまいっちょ向こうの合楽世界にも住めれるような、私はおかげが頂かれる、と、こう。 これは、熊谷さんのお話をここで聞かしてもろうて、それを感じました、ね。だから、お供えとおかげは附物ではないのですけれどもね、その、いうなら真心、または勇ぎよい心には、いうなら、それが神の比礼になるのです。
氏子が真からもちえるのは神も比礼ぢゃが、と、仰せられるのですから、ね。神様の比礼を輝かせる事の出来るようなお供えも出来るような、一つおかげを頂きたい、ね。これは昨日、久留米の北恵美子さんが毎日、日参をされます。もう転勤から転勤でなかなか落ち着きません。北野の、いわゆる娘時代からの信心ですから、信心は長いのです。こんど、久留米の方へかわって毎日日参が出来るようになり、初めて、何十年信心させて頂いておるけれども、初めて信心の有難さ、教えを実験実証する事の有難さが、最近わかってきた。この頃の十三日会の時に発表しておりましたあの人が北恵美子さんです。もう気立てのいい、何と言うでしょうかね、非常に親孝行なんです。ね。そして気立てがいい、ね。なかなか信心も熱心である。昨日、参って来てお届けを致しますのに、今朝方から親先生、お夢を頂きました。それが、親先生が私に言われるのが、恵美子さんあんたはずるいよ、と、言われた。霊様関係の事なんかでも、ソロバンばっかり持ってから、計算づくであんた、ま、いうならば、きたない。と、言われて眼が覚めた。
頂いてみれば頂いてみるほど、言われて見れば言われて見る程、自分という物を見極めた時、本当に自分はずるい、自分はきたない。これは、人間の見た目と、神様の見た目という事ぢゃないでしょうか。これは、私共、人間が見たら、なら、北恵美子さんは美しい人です、心の。 しかも親孝行です。 しかも毎月、月の霊の帰幽日には、もう、必ず甘菜辛菜を用意して、必ずお供えをして玉串を上げてかえられます、ね。それだけの事が出来ておる人が、あんた、ずるいとか、きたないとか、と、言われたらそれではない、なら、お互い私共の場合には、どの位ずるいか、きたないか、わかりません。
これは、神様がご覧になった、いわゆる神の眼です。人間的見たらあの人は本当に真面目な人、ね、美しい人、なかなか親孝行な人、ま、あげれば、その、お互い自分もそんなふうに思うとるかも知れませんよ、皆、ね。けれども、神様が御覧になる。
ただ、あんたずるいよ、あんた汚いよ、と、いう事。それで、なら今、自分の信心さして頂いておるけれども、教えの有難さがようやく、最近わかってきた、と、いうような生き方の時でございましたから、ございますから、ね、本気で自分自身の心をです、いうならば、顕微鏡でながめるよにして自分を見当してみたんです。
そしたら、あるわあるわ、こんな汚いものがあった、こんなずるい心があった、と。もう、これがもし信心の薄い時だったら、そげな事はない、ち、言うて反発するでしょうね。けれども、信心がいよいよ佳境にいっていく時、信心がいよいよ有難くなってきておる時だから、それをお夢の中に頂いて、本当に私のようなずるい人間なおるまい、私のような汚い人間なあるまい、と、感じて来たです。ね。
そういう信心が、ま、根底として出来て、私は、いうならば、ですね、お供えをさせてもらわずにはおられん、真心であり、または、いさぎよい心であり、ね。そこに、氏子が真からもちえるのは神も比礼ぢゃが、と、いう、ね。神様の比礼を輝かす事が出来る。神様の比礼が、またこちらに照り返った、私共の上におかげの比礼となって現れてこないはずがないです、ね。ただ、この教えだけを頂きますとね、寄進勧化はしてはいけん、とか、または、なら、今日の御理解でいうと、お供えの多い少ないで、おかげが多い少ないぢゃない。おかげとお供えは附物ぢゃない、というふうに、簡単にしかも極端に教えておられます。
ほう、金光教の信心はお供えせんでよかばいの、お供えせんでおかげ頂くばいな、と。 いうなら、早とちり的な頂き方ではおかげにならんですね。ね。いうならば、場合によっては、本当に自分の心が救われたい。本当にあの世でも助けてもらいたいなら、それこそ遺言状の一つでも書くぐらいな度胸が、ね、いるです。そこに与えられるもの、これは自分で頂こう、と、するわけには、神様からゆるされる、神様に与えられるものですから。なら、お供え一つでも、ね、真心と慎みを添えて、と、頂くように、が、私は出来るようになる時、氏子が真からもちえるのは神も比礼ぢゃが、と、おっしゃるように、神様の比礼である、ね。 私の財産が世界万国津々浦々に、ね、和賀心時代を創らんとの願いの為の一端にでもお使いが頂けれるんだと思ったら、それこそ喜びいさんでのお供えもできるようなおかげを頂いてこそ、初めて、この教祖様のみ教えの、いわゆる御神意というか、そのお言葉のもう一つ向こうにあるものを悟る事も、また、頂く事も出来る、というふうにおもいます。決して、ね、お供えしなきゃ助からん、と、いうふうには教えてないけれども、そのお供えも、氏子の真からのものが、と、○○教でいう、ね、お供えと。も、この病気はこれこれのお供えをすると必ず助かる、と。また、助かっていきよる、ね。そん時に、ね、いさぎよさというものが、大地にひびくのぢゃないでしょうか、ね。そういう行き方一本で進んでおる教団もあります。だから、それは、あながち、だから嘘ではない、本当だ、という事です、ね。
必ず、裏があれば表がある、表があれば裏がある。教えの、いうならば深さ、広さ、というものは、ただ端的に表面に出ておるとこだけでは、なかなかわからん。自分が実験実証してみると、その教えの深さ広さに気づいてくる、ね。教えの深さに気づかせてもらう。いうならば、信心がいわゆる有り難い。いわゆる、佳境にいっていく、ね。
鉄は熱しておる時に叩け、と、いうような言葉がありますよね。昨日、北さんが頂いておるのは、本当に信心の有難さがわかって来たから、よりわからせよう、と、なさる働きを、ね、そのお夢の中の、 ね。
あんたはずるいよ、きたないよ、と。これが信心のわからん時、どこがずるいですか、どかが私が汚いですか、と、ま、反発したいような事ですけれども、ね。佳境にいっておる時ですから、熱しておる時ですから、神様が叩きなさった。  ね、そして、自分自身本気で自分の心に、ね、顕微鏡を当てて見るような心で、自分という者を見てみたい時に、成程、汚い自分だなぁ。ずるい自分だなぁ、という事がわかる。そこから、そこから、私は、改まる信心が出来てくる、と思うですね。
                      「 どうぞ 」